アイリーン・グレイ アンド ジャン・バドヴィッチ E.1027・CD-ROM・1枚・新企画 Photo walke
|
|
HOUSES of the Century_by Computer Graphics 第1巻ル・コルビュジェ+ミース・フアン・デル・ローエ) 第2巻チャールズ・イームズ、レイ・イームズ 第3巻トーマス・リートフェルト第4弾アルパー・アールト |
|
|
|
![]() by Computer Graphics Vol.5 Eileen Gray and Jean Badovici E.1027,Roquebrune-Cap Martin,1926-29 《アイリーン・グレイ アンド ジャン・バドヴィッチ E.1027》 企画・制作: プランネットデジタルデザイン 解説:五十嵐太郎 音楽:伊藤わか奈 定価:2,940円(本体2,800円+税5%) CD-ROM・1枚 ![]() |
|
<構成> Movie Drawing Travel ※新企画 Photo walker (画面上を参加移動体験できます) ・ふたりのための建築レッスン E.1027 五十嵐太郎 地中海を望む白いモダニズムの住宅。 それは「E.1027」、または別名「海辺の家」として知られる、女性建築家アイリーン・グレイ(1879−1976)の代表作である。建築雑誌の編集者にして建築家のジャン・バドヴィッチとともに敷地を探すために南フランスをまわり、ロクブリュンヌの崖地が選ばれた。そして1926年に設計を開始し、29年に竣工する。彼女は地形を変えずに、高低差を利用しつつ、軽やかな建築を置く。モダニズムは船を機能主義のモデルとしてみなしたが、E.1027は海辺の船のような住宅をイメージした。テラスの長い手すり、倉庫の丸い窓、リビングに飾られた海図、そして当時の外観写真で確認される浮き輪の設置。デザインにも、それは反映されている。ここでは、ピロティや横長の窓など、典型的なモダニズムの特徴を示すと同時に、漆工芸や家具のデザイナーというアイリーンの出自ゆえに、きめ細やかな生活の空間が実現された。教条主義的に近代建築の原則を採用するわけではない。彼女は「公式は無意味だ。生活がすべてだ」という。そしてモダニズムが理論や知性に偏重することや、内部の住人を犠牲にして目を楽しま せる外観優先の建築には懐疑的で、「理論は生活にとって十分ではないし、すべての要求に応えることもしない」、あるいは「室内のプランはファサードに附随する結果であるべきではない」と述べている。アイリーンは、『エスプリ・ヌーボー』を創刊号から購読し、ル・コルビュジェの影響を受けながらも、ある意味ではそれを突き抜けた。例えば、その先見性を強調するならば、E.1027は、サヴォア邸よりも先に完成した建築だったことを指摘すれば、よいだろうか。 ・CGによる映像のシークエンスを見ていこう。 冒頭は、南から一階にアプローチする。右に客室を眺めながら、住宅の前面にある庭を抜けて、ピロティに向かう。建築の浮遊感を減じることがないよう、一階に挿入された細くて黒いヴォリュームは倉庫である。そして映像は、斜面をのぼり、北側から二階の玄関へ。近づくと、台所のエントラスが見えるのだが、ここには入らず、さらに右へまわり込み、リビングに続くもうひとつのドアを開ける。狭くしぼった通路を出ると、海の風景が広がる。ここは折たたみ式のガラスで、全開する。そして視点が切り替り、リビング内を東に向かう。窓際のダイニング・テーブルを含め、この住宅でアイリーンは工業製品を活用して、可変の家具を幾つかデザインした。リビングの東側は、アトリエと寝室である。バックに流れる伊藤わか奈のピアノは、転調をくり返しながら進行し、曲と空間の切れ目を一致させる。北側のエントランスと同様、寝室も入って、いきなり部屋の全体は見えない。振り向くと初めて、室内の様子がわかるように、空間が構成されているからだ。映像からも、それが伝わってくるだろう。今度は西の窓からリビングのテラスに移行する。そして再び、南からの眺め。最後のパートは、西からE.1027に近づく。テーブルのある足洗い場を越え、右へ旋回し、階段の下をくぐる。ここで地中海の広がる、南に向く。エンディングは、音楽のクライマックスとともに、水平線が視界のなかで大きくなる。アイリーン・グレイの名を初めて知ったのは、90年代の中頃フランスの出版社から刊行されていた『ヨーロッパの装飾芸術』(中央公論新社、2000年)の「アールデコと機能主義」という章の翻訳を担当したときである。そして伝説的なコレクター、ジャック・ドゥセのために制作した漆塗りの四曲の屏風(1913)や、華麗な曲線が舞うサーペント・チェア(1924)などの作品に触れたのだが、要するにアールデコの文脈においてであった。実際、近代建築史の教科書的な本を改めて読みかえしたのだが彼女をとり挙げているものはほとんどない。そもそも女性の建築家自体が圧倒的に少ないはずだ。にもかかわらず忘れ去られていた存在だった。彼女は自ら押しが強い人間ではないし、だからしかるべき地位を得られなかったと述べている。建築家としてのアイリーンをちゃんと認識したのはおそらく90年代の後半で、ビアトリス・コロミーナの「戦線−E1027」(『10+1』10号、1997年)など、ジェンダー系の建築論が興隆するなかで言及されたからだ。ル・コルビュジェが E.1027を称賛する手紙を送る一方で、1938年にここで滞在したとき、裸婦の壁画を勝手に描きアイリーンを激怒させたという。その挙句、脅迫まがいのメッセージをだし、やがて彼女は建築史から抹消された。ル・コルビュジェはその後もこの住宅につきまとい(?)1949年にロクブリュンヌで集合住宅のプロジェクトを手がけているし、1952年、すぐ近くに小屋を建てている。1923年、アイリーンは、装飾芸術家協会に出品したインテリア・デザインが、デステイルのメンバーや、グロピウスらに評価されたことが、建築界と接点をもつきっかけだった。そしてパドヴィッチに家具だけではなく、建築もやるべきと薦められる。アイリーンは、彼の手ほどきで建築を学び、女性建築家のアドリエンヌ・ゴルスカを紹介してもらう。彼女は架空の住宅設計を行い、練習していたが、E.1027の機会を与えられ、実践こそが最良のレッスンと考えて引き受ける。アイリーンは他の仕事を控え、現地で設計に専念した。その過程においてバドヴィッチは屋上まで届く螺旋階段を提案したり、構造をチェックしたらしい。彼女は「私たちは協力しあっていました。いまさら誰が考えだしたかなど詮索するのは馬鹿らしいこと。屋根と階段については彼の発案でした」という。すなわち、二人の建築レッスンの成果が、E.1027だった。パリに戻って、彼女はジャン・デゼールという自分のデザインした家具を販売するショップを閉じる。建築家の自覚をもったからだろう。それにしても、24年頃に建築を学びはじめて、最初に手がけた住宅が、傑作のE.1027とは驚くべき才能である。ル・コルビュジェも嫉妬したのかもしれない。最後に住宅の名称について触れておこう。E.1027というのは、いかにも謎めいた記号である。10月27日?、それとも番地だろうか。楽曲の整理番号のようにも見える。Eがアイリーン(EILEEN)の頭文字というのはすぐに気づく。が、残りの数字は、それぞれがアルファベットの何番目の文字であるかを示す。すなわち、10はJ、2はB、7はGとなるから、E.J.B.G。アイリーン・グレイのイニシャルE.Gのあいだに、ジャン・バドヴィッチのJ.Bが挿入されている。E.1027というタイトルは、二人の署名だった。 |
|
|