建築における「日本的なもの」

1600号      1603号


京都発大龍堂:通巻1602号


《建築における「日本的なもの」》

著者:磯崎新
発行:新潮社
定価:2,415円(本体2300円+税)
20cm332p
4-10-458701-X
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建築が表象するのは国家の欲望か? 時代を打破する革命の予兆か? 伊勢神宮から未来都市まで、壮大な射程を持つ世界的建築家の画期的な日本=建築論。
<著者紹介>
1931年生まれ。東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。
磯崎新アトリエを設立、国際的建築家として活躍。
代表作につくばセンタービルなど。著書に「空間へ」ほか。
<内容>
そのはじまりから、「日本的なもの」という問題構制は、島国日本の外部よりの視線に属するものだった。島国が自閉したひとつの共同体であるならば、その内部であらためて「日本的なもの」などとりあげる必要もない。自己言及の堂々めぐりをするに過ぎないからだ。
だが、外部よりの視線がそそがれると、これに応答するための対策が内部的に組織されはじめる。内部において、外部よりの視線を推定し、それに適合するような事例や美的な趣味が捜される。日本において「日本的なもの」という問題構制がとりだされるときは、きまってこんな関係が島国という国境が海でしかないその輪郭線上に発生している。
ジャポネズリーは浮世絵、屏風、甲冑、印籠といった日本よりの道具の収集のブームを起こした。いまのエレクトロニクス製品や自動車のように、19世紀には大量のこれらの小道具が流出し、いわゆる「日本趣味」をうみだした。これが西欧の美術やデザインに影響を与え、印象派やアール・ヌーボーをうみだして近代美術やデザインの20世紀の動向をつくりあげたことになっている。とはいっても、それはシノワズリーをピクチュアレスクが、アフリカ彫像を立体派が参照したのと同様で、みなれないエキゾティックなものを偏愛することで自らのコレクション・アイテムを増加させたに過ぎない。西欧芸術の根源であると考えられてきた「ギリシャ的なもの」への憧憬がその更新のために絶えず繰り返されてきたのとは、これらのエキゾティックな趣味の領域は基本的に違っている。
だが、ジャポネズリーがうみだした「日本趣味」はその対象となった日本の内部に、それに応答するための対策をうみだした。さしあたりは西欧のコレクターに供給するための美術品を古道具のなかから選り分けることであり、それを制作できる職人を技能者として海外に送り出すことだった。特記すべきは、これらの物品は必ずしも日本では美術品とは認定されていなかったことである。日常用品を美術品に選別するには鑑識眼が必要で、その判断を支えていたのが西欧で組み立てられた「日本趣味」であった。それは明らかに外部よりの視線に所属するものである。
1世紀を過ぎて、やはり「日本趣味」は健在である。だが、もう物品ではなく趣味そのものになった。「単純さ」「素朴さ」「純粋さ」「軽さ」「しぶさ」……。数々の形容詞として趣味が語られる。むしろこれらの言葉を介して、「日本的なもの」が選別され、美的判断が下される。これらの一群の趣味は、勿論日本のさまざまな事例の中に断片的にひそんでいた。だがそれが「日本的なもの」だと認定されるようになったのはそんなに古いことではない。建築デザインに限っていうならば20世紀に入ってから、とりわけ1930年以降である。それは西欧で展開した近代建築を日本が受容した過程と重なり合っている。いいかえると、近代建築は「日本的なもの」という問題構制を組みたてながら、日本にはいってきた。USAのアール・デコ受容が20年代後期、近代建築としての国際様式の受容が30年代前期よりとみるならば、時期的にそれ程の差はない。だが地政学的に極東の島国であるために、特殊な問題を最初から抱え込んでいた。それが「日本的なもの」をめぐる問題構制であった。
外部よりの視線との接触は19世紀中期に日本が民族国家をつくりあげることによって近代化への道をたどりはじめた時に、顕著になった。後にボストン美術館の東洋美術部門のコレクションに貢献した岡倉天心(1863〜1913)は、まずその近代的な美意識に基づく鑑識を、明治政府が招聘したフェノロサ(Ernest F. Fenollosa 1853〜1908)の古美術調査に随行して学んでいる。彼は伝統的な日本画の近代化運動にもたずさわるが、彼の『茶の本』(“The Book of Tea”1906)は、エソテリックな趣味でしか扱われなかった茶道を近代的な観点より説明した著作であった。それは最初から英文で執筆されている。いいかえると、日本を外部よりの視線で観察している。フランク・ロイド・ライトは後年「箱の破壊」で出版直後にこの『茶の本』を読んだときの驚きを語っている。それは茶室や茶器の説明に、岡倉天心が老子の引用をした節についてである。ここでは、それらが内部に空洞を抱えこむことによってはじめて存在たらしめられていることを、老子の空虚の遍在によって説明してあった。F・L・ライトはこれを誤読した。遍在する空虚ではなくて、目的的な内部空間として解釈してしまった。自らの作品がその内部空間を囲う箱を破壊して、外部へ流出させることを独自な手法の開発によって達成したが、内部空間を重視するという視点は自分が創始者たるべきなのに、東洋では既に語られていたのか、と一瞬唖然としたという。だが、気をとりなおしてみると、建築家として内部空間を目的化し、その囲いたる「箱の破壊」を実践したのはやはり自分だけだった、と満足げに語っている。
もともと、F・L・ライトは遍在する空虚と目的的な空間とをとり違えている。空虚が支える存在論と、デザインの対象としての空間論のすれ違いであって、この誤読はかたちしか念頭にない建築家の早とちりだが、そんな逢遇がF・L・ライト自身の視線をより日本へと注がせることにもなる。その頃彼はアマチュアの浮世絵コレクターであり、時にディーラーでもあった。そして帝国ホテル(1922)を東京に設計することになる。奇妙なことに、これだけ「日本的なもの」を愛好したF・L・ライトの仕事は日本において、一九三〇年頃から盛んになってきた「日本的なもの」をめぐる言説のなかで参照されることは殆どなかった。西欧人の眼からは、帝国ホテルは東洋的、あるいは日本的と見えたかもしれないが、日本人にはまったく日本的と感じられなかったのである。大谷石という凝灰岩を多用したこともかかわるだろうが、彼のデザインには浮世絵にみられるような平面性はない。奥行でさえ平面の重層で感知させてしまうような、グラデーションや透視図法にたよらない日本での空間の感知方式とは無縁の、やはり量塊的で構成的なデザインであるためだと思われる。遍在する空虚と目的的空間とをとりちがえるのは当然のことだった。[新潮社]