京都の町家にて「庭園(壷庭)とは」講演会記録

この文章は講演会が催された時の講演記録です。

●考える庭


1.「庭園」とは

「庭園」とは如何なるものであるか。皆さんはそのようなことを突き詰めて思案を重ねたうえで、庭園をご覧になるのではないと想います。それぞれの庭園の本当を感じて頂く際、そういった概念論は本来不要なわけです。

「このお座敷から庭園を観ているととても心が落ち着く」「縁側で庭園を眺めていたらいつの間にか眠ってしまった」「何だか今日は樹々が笑っているなあ」「鳥達が騒いでいる。明日は雨だろうか」「雨の音が心までしっとりとした安らぎを与えてくれる」などといった素直な想い。人と庭園の間で授受されるダイレクトなやりとりが本来なのでしょう。 

しかしながら今回はあえてあえてその概念論も交えて、皆さんとご一緒に庭園というものを楽しませて頂きたいと想います。


2. 広辞苑と私ということでいきなり概念論

とりあえずのところセオリー通りに広辞苑に聴いてみました。すると、広辞苑は教えてくれました。「庭園」とは。

「美観・慰楽と実用のため、主として住居の周辺に樹木を植え、その他特に計画された土地」確かにそうなのかもしれません。ある意味においてはぬかりなく端的に庭園というものを描写しています。さすがに広辞苑です。

今度は庭と園に分けて聴いてみると。「庭」とは。「a. 広い場所。物事を行う場所」「b. 邸内または階前の空地」なるほど。「邸内の空地に草木を植え、築山・泉池等を設け、鑑賞・逍遥する場所」これが解り易い庭のイメージか。でも逍遥とは何ぞや。(散歩の意らしい)

「c. 波の平らな海面」そのような意も在るのか。「d. 出入口の土間」ああ、これは町家にも通じるな。「e. 家庭」そうか。でも家庭は家と庭が揃って成り立つハズなのに。

続いて「園」とは「a. 果樹等を栽培する為の一区割の地。庭園」やっぱりね。
「b. 場所。にわ」シンプルなお答え。「c. 穴」何なのだ。

以上のように広辞苑は教えてくれました。如何でしょう。天下の広辞苑。なかなか揚げ足も取らせてくれません。それどころか感心させられてしまいました。広辞苑でも結構遊ぶことが出来そうです。それを踏まえた上で、偉大な広辞苑様の見解を客観的なものと位置付けさせてもらうとして、私の主観的な見解を述べさせて頂くことにします。

「庭園」、やはりそれ本来に明確な定義付けは必要ないと想われます。しかしながら鍵になるのが自然との関わり合いであると想います。

「自然本来」、それは人の力では及びも付かない程の偉大さであります。故に太古の昔より人は自然に憧れ、崇拝し、恩恵を受けて人間生活を営んで来ました。

一方、私達が創造する「庭園」。これは一見、自然本来と錯覚して捉えられがちです。確かに生命在るものをその素材として用います。樹木、石、土、水、光。しかしながらそれらを用いて我々が創造するもの。これは明らかな不自然なのです。

人々が持つ自然本来への想いを象徴化したものなのです。聞こえは良くありませんが作為的な自然であるわけです。(こんな事を人様から、面と向かって云われるとカチンときますが、この際、自分で云っておくことにします)
「自然本来」と「人間生活」。この両者の繋ぎ役、ショックアブソーバーとしての役割を担えることを私は自らの理想としています。自己満足ではありますが。


3. 慶んで頂きたい

ドライな云い方をしてしまうなれば、私達の仕事はサービス業です。慶んで頂きたい方、その対象となる方がいらっしゃるからこそ私達は庭園を創造していく訳です。どんな人が、どんな風にといった5W1Hの状況に合わせ庭園をオーダーメイドー・オートクチュールしていきます。テーマは「慶んで頂きたい」という想いで。

話は飛びますが、お茶、茶道。この精神から私は学び取ることも多くありました。一期一会の中において、亭主・客人双方が相手の心持ちを推し量り、慶ぶところを見いだし、それに応えようとする。相手の心を気遣うということは仕事に限らず、人が生きて行く上で当たり前のことです。その当たり前のことが出来るというのは、とても素敵なことだと感じます。


4. ストーリーの構築

再び話は戻ります。そうです。慶んで頂くために、庭園においてはストーリーを構築していきます。

このストーリーとは創り手が慶んで貰うべき人(お施主、オーナー)の心持ちを推し量り、自らが出来うる限りの表現でもってして構築していくものです。
よってその表現は創り手それぞれであり、多様なものであります。そのハズなのです。

ところがこの多様なハズのストーリーにマニュアルが存在しました。著名なところで平安期には作庭記が、江戸期には築山庭造伝が。マニュアルの中には真行草それぞれにおいて、樹木・石の場所を指定し、それぞれに名前まで付けています。実に親切なマニュアルです。

これらのマニュアルは今読んでみても学び取れるものも多く楽しむ事が出来ます。例えば遣り水の流し方。これはいまブームの陰陽五行説の思想に基づいています。東から一端南に水を流し、最後に西に流す。つまり青流(東)の水をもってして邪気を白虎の道へと洗い流す。その際、居宅を遣り水の腹に向けることを吉とする。何だかとても面白いではありませんか。でもそれがどうしてなのかその理由は記されていません。

ですがご存じの通り京都の町全体を考えてもこの陰陽五行説は成り立っています。御所を中心とし平安京とされた街全体を居宅と見立てて下さい。北に玄武として船岡山。南に朱雀としての小椋池。東は青竜として鴨川。西は白虎として山陽道。平安京の東、青竜である鴨川よりの水は御所の腹をかすめる南に流れ、最後は白虎の道の南へ抜けています。

このように京都の町自体が大きな庭園と捉えられていました。ですから古くに創られた庭園をご覧になる際は水の流れだけでも注目してみて下さい。きっと東、南、西と流れているものが多いですから。と、まあいま読んでみても楽しく学ぶことの出来るマニュアルなのですが、これらに頼りきってしまった時、オリジナルのストーリーは創り出されなくなります。

これらが記されたのはずっと昔のことです。いま私達が学び取らねばならないのはその見た目ではなく、その精神ではないでしょうか。平安時代、貴族が船遊びをするため池には、船着き場や中之島がありました。それは創り手がその貴族を慶ばせようとしたためです。船遊びをしない現在はその名残を残さねばならない面もありますし、もっと異なった慶ばせ方を追求せねばならない面もあります。

マニュアルを崇拝する傾向も未だに強い今日ですが、その精神を踏まえた上で、自らなりの表現をして行きたいと考えています。慶んで頂くために。


5. 表現の実際

明るい庭園と接していれば自らも明るくなるであろうし、庭園が微笑み掛けていれば自らも微笑み掛けてしまうものです。私達は慶んで貰うべき方の心持ちを推し量って、出来うる限りの表現をさせて頂くわけですが、そのためには庭園にも慶んでもらう必要が在ります。

例えば樹木。どんな樹木にも一番良い顔があります。そうです。樹木は皆、太陽に向かって笑った顔を見せています。皆、太陽がとても好きなわけです。
例えば石。どんな石も穏やかな顔、険しい顔、のっぺりとした顔を持っています。

それぞれの素敵な顔を、如何に素敵に演出出来るかが私達の仕事です。しかしながら最近は悲しい樹木をよく見かけます。公共事業用の樹木達です。公共事業は図面の上、紙の上で線を引かれて決められたものが全て正解となります。よって樹木は高さ・目通り・葉張りといったものは数字で指定されてしまいます。結果、公共事業用の樹木としてその条件に見合った規格品ばかりが養殖されて行くこととなりました。

立派な大枝を誇った大木も公共事業用にその枝を落とされ、電柱のような状態に仕立て直されています。樹木の表情などお構いなしに、誰がどのように植えても同じ状態になる。このような無機質な状態が現在の主流となりつつあります。

私達は恵まれています。この方に慶んで頂きたい。この庭園に慶んで頂きたい。この樹木に慶んで頂きたい。そのような想いがあるのですから。


6. 住まいの庭園

「家庭」、つまり家と庭からこの言葉は成り立っています。時代も移り行き、近年は庭の占めるウェイトも減少傾向にあります。しかしながらその家庭を構成する一翼を庭園が担っており、そこに私達は携わっている。それぞれの家庭の慶ぶところを微力ではありますが、サポートし、その慶びも分けて頂ける。とても恵まれた仕事をさせて頂いているわけです。

家庭、住まい。色々な仕事をさせて頂く中においても住まいの庭園は私達にとって特別なものです。昨今とても脚光を浴びています町家。均質化され行く現在において、その魅力は強くなっています。現在においてはその魅力から、さまざまな用途に用いられています。

しかしその本来は住まいであったわけです。ミセノマがあり、ゲンカンがあり、ダイドコロ、オクノマ。ミセノマがあるということはそこでお商売もなさっていたわけです。それぞれの家庭があり、それぞれの生活があり、それぞれの慶びがそこにあった。町家。わたしにとっては「生活に根ざしていた」ということがとても魅力的です。


7. 坪庭の発想

町家の庭園というと「ああ、坪庭ですね」とよくおっしゃいます。まあ、坪庭の定義付けも曖昧であるのですが。坪庭はその字の如く、坪単位の凝縮された空間との意味合いが強いものです。しかし「壺庭」や「局庭」と表されることもあります。四方を囲われた空間として壺というわけです。

平安時代、大きな建物と建物を廊下で繋いでいました。そこには四方を囲まれた屋外空間が出来ます。これが坪庭の起こりのそもそもであるとされます。京都御所にある藤壺、萩壺といった庭園もこのような発想に起因したものです。現実的に考えるならば、この発想はごく自然です。建物と建物の間を移動するために廊下を設け、そこに庭園が出来た。建物の真ん中部分をくり抜くように庭園を創ったならば、四つ分の壁面を別に設けることとなります。これはコストもかさむこととなるわけですから。

いずれにせよ通気性や採光を考えた際、坪庭の果たす役割には大きなものがあります。当然この様な坪庭的発想は日本だけに限定されたものではありません。西洋のコートやパティオ、中国のユアンツなども同様なものとして捉えることも出来ましょう。


8. 町家の庭園

坪庭=町家の庭園、といった図式は必ずしも素直に成り立つものではありません。しかしながら坪庭といった大きなくくりの中の一つとして捉えるならば、町家の庭園の存在意義は別格であります。

町家の庭園の形態もレイアウトもそれぞれによって、特に地域によって異なります。町家の庭園の主となるものはオクノマから望む庭園になります。しかしそれ以外にもちょっとした植栽をあしらった空間も存在することがあります。

西陣のように特にお商売をメインに創られたものの場合、ミセノマやゲンカンノマから緑を伺える場合もあります。本当にちょっとした空間。それが客人に対するおもてなしとなっています。

一方、住居であることを一番と考え創られたもの。私の住む辺りに多く残っている町家は少し異なります。まず「さる戸」があり、それを開け潜ったところにまず緑の空間があります。いまでいう玄関庭です。建物に入るにはもう一つ戸を開けることになるわけです。このような前栽(せんざい)、サービスヤードといった発想もその町家町屋それぞれであります。


9. 主庭について

それではここで町家の庭園のメインとなる主庭について私の主観的なお話をさせて頂きたいと想います。

a. 坪庭といえば四方を囲まれた空間であるため、最大四点からの視線を意識した創りとなります。しかしながら多くの町家の主庭の場合はこれが二点となります(三点ともいえます)。
まず第一はオクノマの床の前に座ったところよりの視線です。ここからの眺めが全てといってしまっても過言ではありません。ここでゴロンと横になりのんびりと眺めるのも良し、客人が改まった姿勢で眺めるのも良し。燈籠も、手水鉢も、沓脱ぎも、飛び石も、樹木も。全ては床からの眺めを意識してレイアウトされています。

b. もう一つはお手洗いの前。縁遣いの手水の辺りからの視線です。町家の庭園の美徳とされるものの一つが、この縁遣いの手水です。
これは意匠的に優れているのみならず、実際に使用出来る。これが何より一番です。お手洗いから出てこの手水を用いる。意匠性と機能性、双方を兼ね備えています。そしてここからの眺めも、縁遣いの手水越しの眺めも、床からの眺めとはちょっと異なった角度で、アクセントの効いたものとなっています。

c. さらにもう一つ付け加えるなれば、二階からの視線。見下ろす様に主庭を眺めるのも楽しめます。

d. 実際に庭園を散策出来る。これも町家の庭園の優れた点の一つです。そこには沓脱ぎがあり、飛び石が打たれ。蹲いもある場合もあれば、燈籠の為の灯り取りの石もある。広いお宅では奥にしおり戸が設けられ、さらに奥の庭園や蔵、またお茶室等へと繋がっている。

このように必ず庭園を実際に感じ取る事が出来るのも他の坪庭と異なる点でありましょう。

e. 多くの場合、そのレイアウトの典型は(床から観て)沓脱ぎ・ナツメ型の縁遣いの手水・飛び石・お手洗い用の縁遣いの手水・大きな燈籠・松等の主木となっています。こららを一つの線で繋ぎ、それを視線の辿るラインとするならば、遠近法としても優れたものであると云えます。オクノマからの縁遣いの手水としてはよくナツメ型が用いられます。しかしながらこれはお手洗い用のものとは異なり、実際使用される事はあまり無く、意匠性を重視したものとなっています。

f. 床から辿り着く視線の先には燈籠が、その横に松などの大きな主木が存在する場合がたいていです。これらは主庭の中でも主役であるわけです。他にもオクノマ、お手洗い、それぞれからの縁遣いの手水に添えて燈籠が配されることもあります。

燈籠はそもそも灯り、照明器具であります。実際そこに灯りが点ることが無くなったとしても、灯りを照らさねばならない方向に燈籠は向いています。燈籠は庭園の主役ともなり、存在感のあるものです。よってこの燈籠の向きは重要です。燈籠が適切な方向を向いていれば安心感を与えてくれます。ところが僅かでも角度が狂っているなれば、庭園全体のストーリーは崩れ、全体としての統率まで狂わせてしまいます。

余談ではありますが、火袋の向き。「月は東に、日は西に」となっています。ですが、人の目に心地よいのは三日月の先端がこちらを向いている場合であります。

このように燈籠や主木として松などを配するということは一種のステイタスであったと云えます。人々の憧れであったわけです。なぜならこれらからは安定、不変、尊厳といったイメージを与えてくれるものでありますから。

g. 植栽としては先に述べた松などの主木。これは緑というよりむしろ幹のラインの美しさを表現することが多いと云えます。そして日差しを遮る程度に上を覆う。松の幹肌と重厚な燈籠。このセットは町家の典型であります。

他の植栽としてはやはり陰樹を用いることが多くなります。マキ、サザンカ、カクレミノ、アオキ、ヤツデ、アセビ、モチ、竹など。足下は地苔の上に、シダ、ハラン、センリョウ、マンリョウといったものが中心となります。

h. もう一つ、面白いのが排水です。大抵の場合、蹲いの海の部分に排水溝が切ってあります。そこに水を流すわけです。町家の庭園の場合、大雨が降っても、何とはなしに、いつの間にか水が引いていきます。排水溝が詰まっていても、どういうわけだか水が引いていきます。面白いことです。


10. 今後における町家に対する希望

勝手な想いですが。私は住まいの庭園がとても好きです。その人その人、慶んで頂ける人の顔を想い仕事をさせて頂けるわけですから。パブリックスペースに近づけば近づくほど、オーダーメード・オートクチュールは困難となり、プレタポルテになってしまいます。

商業ベースに近づくと。例えば旅館等においては、さまざまな用件で宿泊される客人の慶ぶところを求めることとなります。この場合はいわば非日常の感覚が求められます。よって短期間に客人に慶びをもたらそうとするため、庭園も誇張されたものとなったり、象徴的なものをふんだんに取り入れることも多くなります。

結果それらは絢爛豪華なものになってみたり、形式ばったものとなってみたり、どこかのレプリカになってみたり、ダイジェスト版のような庭園(ストーリーなく見所を満載してしまう)になってみたりといった状態になりがちです。安定、安らぎ、落ち着きが表現されたとしても、それらも誇張、象徴されたものとなり、日常生活では味わえないものとなっているハズです。

家庭においてはオーナーが毎日その庭園に接する事を前提とする場合が多くなります。そこでは当然、飽きないものが求められ、安定、安らぎ、落ち着きといったものがベースにすることとされます。

町家。それは生活に根ざしたものでありました。人に慶びを与えてくれるものでありました。
現在においては社会状況、生活環境も当時とは比較にならぬ程、変化しています。だからこそ、そのような中において、町家は魅力的であります。町家から感じ取れる雰囲気、職人の一つ一つの技、そこに住まう人・携わる人の想い。町家に一歩足を踏み入れるだけで、或いは踏み入れずとも伝わって来るものは多く、大きいです。生意気を云いますが、だからこそ生活に根ざしたものとして在り続けてもらいたい。文化財や美術館として人の日常から離れた姿であって欲しくない。過去の遺産ではなく、現在にも次代にも生き続けて欲しい。その様に強く感じます。

有り難うございました。

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