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![]() ■日本建築の正統を知る 故・大江 宏 (元日本建築家協会会長・前日本芸術院会員) |
近代建築運動が始まって以来、今日ほど「和風」が問題にされたことはない。それはおそらく、和風の建築がもつ精緻な体系が、現在の建築家の中から消滅しつつあることの危惧の念を深くしているからであろう。 私はかねがね、例えば書院の空間にみられるように、建築の「格rを重視している。それ故にこそ近代建築の土壌で育った建築家は、もっと真摯に日本建築の正統を継承すべきであると考えている。歴史的な日本建築の作法が、修理技術としてのみ継承されるのでは、それは死せる伝統になりかねない。 このたび、『日本建築古典叢書』が企画され、前日本古文書学会会長小葉田淳博士の監修をえて、名古屋工業大学教授内藤昌博士を中心に鋭意刊行されることは、まことに時宜をえたものである。ここに日本建築の正統的な技術や思想が体系的に整理され、始めて紹介されるのは、むしろ遅きに失しているとさえ思っている。この叢書によって、日本の古典建築書を熟読玩味し、将来にむけて活きた伝統を造って行くことは、これからの建築界、ひいてはひろく日本文化を創造してゆく者すべてにとって、必須の要項と考える。 |
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![]() ■初めてひらく工匠の「道」 故・林屋辰三郎 (日本学士院会員・京都大学名誉教授) |
日本中世には、古代いらいの芸能や技術がそれをになう人々の創造的な活動によって、立派に体系化され、近世にむけて「道」として伝えられた。その在り方は茶・花・能などの芸能においては、あまりによく知られているが、建築についても同じことが考えられる。 それは当時ひろく職人とよばれた人々について共通することだが、匠(たくみ)の道であり、建築に限れば工匠の道であった。 しかし、この事実が従来あまり注意されなかったのは、その道の典拠が多くの場合秘せられていたからである。たとえば堂宮、屋敷、そして数寄屋などの建築雛形、さらに小道具や規矩、仕口などの雛形。とくに家相の問題などは、近世に至って秘伝として家に流伝されたものである。今回はじめてこの日本建築古典が、叢書全十巻のうちに洩れなく収録して公開されることになった。 それは極めて重大かつ緊要な出版事業であって、そのことによって建築史上伝統的技術の普及保存に役立てられるばかりでなく、文化史研究の上においても古典的基礎をもって工匠の道が確立する思いがある。しかもこの叢書は私の最も尊敬する小葉田淳・内藤昌両博士の監修のもとに厳密に編集が行われている。その内容は高い信憑性をもつものと云えよう。ひとり建築史家にとどまらず、日本文化に関心をもち、日本人の衣・食にならぶ住生活に興味をもたれるすべての方々に、お薦めしたい。 |
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![]() ■温故知新 故・清家清 (元日本建築学会会長・元東京芸術大学美術学部長・東京工業大学名誉教授) |
創世紀によると「神は自分のかたちに人を創造された……」ということです。神さまでさえ重要な人間のかたちをデザインするときにご自身の姿に似せて、云い換えればご自身のかたちを剽窃されたということになるのです。 神さまでさえ形象/かたちを考案する際に何か依りどころになる古典を探索された結果ご自身の姿を真似られたというわけです。 中国の神話でも天子禹は黄河の治水に当って天から授けられた「河図洛書」に倣ったという故事があります。禹王は洪水のカオスのなかに「河図洛書」に依って治山治水の設計図をこしらえたということです。図書の語源です。 創世紀の神さま、或いは古代中国の禹王でさえ重要な実在の形象のデザイン/設計図をこしらえるに際しては、何か依りどころになる原体験的なかたちを必要としたことがわかります。 まして、私ども平凡なデザイナー或いは建築家が形象の発想−デザインコンセプトの段階で難渋するのは当然です。こうした時に、先人の残してくれた古典、特に先人の残してくれた図形/かたちは新しい形象を創り出す源泉です。折角残された日本建築の古典を集大成し展望できる『日本建築古典叢書』は必ずや私どものデザイン活動の基礎資料となることでしょう。新しい日本の建築の創造=温故知新とでもいうのでしょうか。 |
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![]() ■未来の建築をうかがう基礎 故・吉田光邦 (京都大学名誉教授・前日本産業技術史学会会長) |
建築史は日本の技術史のなかでは、早くから独自の発展をとげてきている。そして多くの業績が積み重ねられてきた。しかし意外なことに、過去の工匠たちが残し伝えてきた、多様な建築書の研究は、まだ十分に行われていないように思われる。 西洋では有名なヴィトルヴィウスの建築書にはじまるそれらには、多くの研究が進められているし、中国の営造法式もまた二、三の研究をみることができる。しかし日本の建築書にあっては、木割法、規矩法などの技術的研究はみられても、あの豊富な意匠や設計については、論じられることはすくないようである。 これには多くの古典が、活字化されて、研究者の手もとにつねにあるといった情況が、生まれていないという事情が、大きく作用していよう。そのためには、重要な史料をゆたかに供給することが、ぜひとも必要となる。 このたび計画された『日本建築古典叢書』は、そうした欠を補ぅものとして、きわめて重要な意味をもとう。中世から近世に至る建築の古典が、こうした形で刊行されることは今後の日本建築史の発展に、大きな役割をはたすものとして、十二分に期待できるところである。しかも各冊はすべて現代第一線にある研究者が担当されるという。とすればそれは歴史のみならず、未来の建築についても、たいせつな基礎を打ちたてるものとなろう。刊行を心から悦びその成功を祈りたい。 |
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![]() ■日本建築の全体像を問い直す 故・稲垣榮三 (明治大学教授・元日本建築史学会代表・東京大学名誉教授) |
中世末期から近世にかけて書かれた多くの建築書は、ごく一部の専門家を除いて一般の眼に触れることは極めて少ない。当初は特定の家の秘伝書として門外に出ることはなかったのであるが、17世紀の中ごろからその一部は刊本として出版されるようになった。それにもかかわらず建築書が一般の注意を惹くものとならなかったのは、内容の大半が技術の啓発を目的として編まれており、建築の設計や工事に携わる人たち以外には縁のないものと考えられていたからにほかならない。 これら建築書が書かれた時期は、日本の建築が技術的にも意匠的にも完成と安定の段階に達してのちのことである。すなわち、それまでは体験を通してのみ伝えられていた建築技術が、漸く文字によって体系化されうる知的水準を獲得したことを物語る。これらを全体として見るならば、そこに日本建築の技術体系のみならず、当時の工匠たちの抱いた建築の理想像、技術に対する考え方、職人であることの誇り、さらに工匠社会の変化の反映などを読み取ることができる。 このたび、小葉田淳・内藤昌両博士の監修による『日本建築古典叢書』は、校訂を経た建築書五百点を収録し、それぞれに解説を施し、かつ研究論文を加えたものであるという。 内藤昌博士の長年にわたる建築書研究の成果が、稀覯本の復刻と一体となって世に出ることはたいへん喜ばしいことである。こうして集大成されることによって建築書は、本来の技術指導書の性格をはるかに越えて、日本の建築技術の全体像をあらためて問い直す絶好の材料を提供することになるであろう。 |
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