2000/4/1 京都町家再生研 「情報発信とコミュニケーションの場としての京町家」


京町家再生の試み・・・・・・・・・・・・・・・003


情報発信とコミュニケーションの場としての京町家

……………………大龍堂書店

磯野英生


コミュニケーションの場
 河原町通丸太町の交差点を西に入り、南に下がったところに、大龍堂書店はある。建築関係の専門書店である。店主の山岸豊氏は、書店をただ物販の場としてではなく、店にやって来る顧客のコミュニケーションの場として考え、活発な活動をしているユニークな人物である。

 大龍堂書店は、豊氏の父、龍次氏が昭和元年に河原町通松原に1坪ほどの店を開いたことに始まる。店は、父の考えで、京都で建築を学ぶ人々の活動の拠点として開放されており、高価な建築書を購入する余裕のない建築家の卵が図書館代わりに情報を得る場になり、また店にはクラシック音楽が流れ、コーヒーが出され、建築談義がなされたそうである。

大龍堂の歴史
 昭和30年(1955年)に現在の場所に店が移されたとのこと。店は、現在の半分ほどの面積で、テーブルと椅子2脚が置かれ、ここでもサロン談義がなされたと聞く。現在の店は、父龍次が亡くなられて6年後の昭和57年(1982年)に吉村篤一氏の設計によって改造された。吉村氏の父と山岸氏の父は昔から懇意であったこともあって、篤一氏も大龍堂に出入りするようになり、「店を直さないか」「直しましょう」というかたちで自然に設計を依頼することになった。設計にあたって、山岸豊氏は、父のコミュニケーションの場としての書店という経営方針を尊重し、そうしたサロンとしてのコーナーを設けることを要望した。椅子を4脚に増やすことが彼の父への敬意であった。施工は熊倉工務店で、この時、それまでそれほど意識できなかった建築の面白さを知ったという。また施主と施工者と設計者の3者の協力が、良い建築を創るという実感を持ったともいう。

町家のよさを生かす
 元の店構えは、陸屋根を模倣した看板建築であったが、それを取り外して、町家の構えを取り戻すとともに、1階の店舗の部分は思い切ってモダンなものになった。H型構の3枚重ねのファサードは、当初の設計では御影石を使用するつもりであったが、コストが合わず現在のものに変更された。この構成で町家の直線的で水平的な雰囲気が出せたのではないかと山岸氏はいう。ドアは伝統的な建具・蔀戸をモデルに使って設計。シンメトリーを外した構成にしたのも、日本建築の、ひいては町家の、構成法から学んだことである。このドアは手動で引き戸なのだが、吉村氏は原寸の図面をファサードに張り付けて、格子の寸法とプロポーションのダメを押したそうである。大きなブロンズガラスのはめ殺し窓も、中から見やすく、外から見えにくいが、これも町家の格子の働きから発想しているとのことであった。外部の構成は、町家の伝統的な構成の現代的解釈で成り立っていると言えよう。内部は、壁はシルバーのダイノック・シート、床は黒のゴムタイル、書棚はグレイのペイントで塗られている。黒、グレイ、シルバーの無彩色でインテリアを構成しているが、アクセントとしてカウンターの腰壁を弁柄色に塗り、現代的雰囲気の中に伝統的な色彩を取り込み、単なる現代化を越えた表情をもつことに成功している。照明は、蛍光灯と白熱灯を併用しているが、書籍の白味を蛍光灯で際だたせつつ、白熱電灯で暖かさを出そうとしたとのことであった。

オーナー山岸氏の存在
 山岸豊氏は、1993年末に脳梗塞で倒れ、左半身が不随となり、現在もリハビリ中であるが、その不自由な体を押して、前にも増して、情報発信者として、コミュニケーションの仲介者としての活動を行っている。

 昭和57年(1982年)から活動を始めた「京都建築フォーラム」は、建築家、建築批評家、造形作家や新聞記者、行政マンで構成され、建築や都市に関わる議論を行うとともに、機関誌の発行や講演会などを主催してきたが(筆者もそのメンバーの一人)、その元締めが山岸氏であった。現在、「京都健康フォーラム」を入院仲間と結成し、季刊誌『ひこばえ』を発行する一方、若い建築家や学生の発表の場である『TRDレビュー』を発行。またE-mailを通して『TRD通信』を発信。不自由な体を押して、否不自由な体を活用して、ますますその多彩な活動を継続している。磯崎新(建築家)・宮脇愛子(造形作家)夫妻や浅田彰氏も近頃店を訪れたそうで、車椅子の生活を送られている宮脇愛子さんとは、同じ病気の仲間として文通しているとのこと。頑張れ、山岸さん。

大龍堂のファサード(撮影:磯野英生)